2021年8月30日(月)まで島根県立石見美術館で開催中の「杉浦非水 時代をひらくデザイン」展に行ってきました。
同美術館はこれで2回目の訪問です。いつ見ても、石州瓦の赤茶色の建物壁面は目をひきます。
いきなりですが、杉浦非水とはどんな人物だったのかご存知でしょうか。恥ずかしながら私はこの展覧会で初めて知りました。
そのあたりも含めてご紹介していきます。
杉浦非水とは…
展覧会概要に明記されている解説文を引用させていただきますと…
杉浦非水(すぎうらひすい・1876~1965)は日本の商業デザインの近代化に大きく貢献した人物です。1908(明治41)年に三越呉服店(のち三越百貨店)の
図案部主任となった非水は、1934(昭和9)年まで同店のポスターやPR誌のデザインを数多く手がけました。一方、三越以外の様々なポスターや雑誌の表紙、
本の装丁も手がけ、明治時代末期から昭和時代中期の日本のデザインをリードしました。華やかでモダンな非水のデザインは、現在の私たちを魅了し続けています。
本展では初期から晩年に至る図案の仕事とあわせ、交友の画家の作品や、若き日に島根県で教員として過ごした時期の作品なども展示し、杉浦非水の全貌を紹介します。
公式サイト http://www.grandtoit.jp/special/sugiura_hisui
また、元々は日本画家を目指していた非水。どうして図案家への転向することになったのか?自分なりにまとめた記事をnoteで公開しています。
そこには、黒田清輝、万国博覧会、アール・ヌーヴォー、アルフォンス・ミュシャの影響がありました。
島根で暮らした若き日々
非水が島根県で暮らした期間はそんなに長くありませんでしたが、28歳というとても何をするにも活発な年ごろだったのではないでしょうか。
1904(明治37)年4月から1905年11月まで、島根県第二中学校(現在の島根県立浜田高等学校)へ図画教諭として赴任します。
本展図録の巻末略年譜によると、以下のように紹介されています。
1904年 28歳 4月、島根県第二中学校教諭として浜田に赴任。この頃、子規派の俳句に熱中し、「翡翠郎」の俳号を使う。
杉浦非水 時代をひらくデザイン図録より
大阪で図案に関わる仕事に就いていましたが、所属先の解体などがありその職を辞めたところに島根行きの話が届きました。
後年には美術大学を創設する教育者として活躍していきますが、当時は自分の表現を追求する方が楽しかったのではないかと思います。
それでも若き非水が島根県で先生としてどんな風に過ごしていたのか、それを垣間見ることができる風景写生帖が残っています。
図録には川西由里氏(島根県立石見美術館の専門学芸員)による「杉浦非水の島根時代」と題した寄稿文が掲載されています。
そこの一部分を引用させてもらいますと、
~ 非水は11月3日に浜田から海岸沿いを東に約20キロ、江津まで写生をしながら歩き(当時は鉄道がなかった)、少なくとも2泊したことが分かる。
旅館での写生に学生服姿の人物が多数いるので、学生を引率しての小旅行だったのだろう。教員生活を楽しんでいた様子がうかがえる。
杉浦非水 時代をひらくデザイン図録より
海岸線の風景スケッチだけでなく、日常の人々の営みを写生した絵もあります。
非水は日本画から出発した人なので写実的な筆づかいで情感たっぷりの風景画が書かれています。
と思うと、中には輪郭線を太くしてデフォルメされた感じでイラスト風に魚を描いている絵もありました。
デザインのひらめきはどこから
非水は絵を描くこと以外に多彩な趣味を持っていたようです。
島根時代には俳句に熱中したと書かれていますが、その理由のひとつに結婚相手の影響もあるのではないかと考えています。
相手は10歳年下の当時18歳の岩崎翠子(すいこ)。のちに歌人として大成する彼女ですが、この頃よりその片鱗はあったようです。
現代でも年齢差のあるカップルでは相手と話しを合わせるために、彼・彼女の興味のあることに関心を寄せますからね。
さらに言えば、非水は俳句王国と呼ばれる愛媛県松山市の生まれです。正岡子規や高浜虚子など多数の俳人を輩出している地域です。
正岡子規は非水より9歳年上なので、同郷の有名人として憧れがあったかもしれません。そんな土地柄で育ったことで、幼い頃より俳句に親しむ素地ができていたのでしょう。
話は逸れますが、正岡子規と聞くと私は司馬遼太郎先生の『坂の上の雲』を思い出します。本は途中で挫折して、NHKのドラマで見たくちですが。
この物語では日露戦争に向かう当時の日本の姿が描かれていますが、日露戦争が開戦されたのが1904年2月です。ちょうど非水の島根時代と重なります。
そして思わぬ形で非水と関わりを持たせるのです。当時のロシア海軍の物資輸送船イルティッシュ号が江津市の沖で沈没するという事件が、1905年(明治38)5月28日に発生します。
救援を求めて浜に辿り着いたロシア兵を住民たちが助けた話は今も地域には語り継がれています。非水はこの報せを聞くとすぐに現場に赴き、その様子を写生しました。
その行動力は非水の大きな特徴で、写真や映像、旅先での民芸品などのコレクションなどその好奇心は枯れることはありませんでした。
中でも展覧会で流れていた画家の藤田嗣治を映したピクニックの白黒動画には驚きました。
移動手段って大切
非水が島根県で暮らしていた当時は鉄道がまだ開通されていませんでした。浜田市から江津市まで歩こうとすると、かなりの覚悟が入ります。
現在、島根県では県を横断する高速道路を建設中で部分的に開通し始めている箇所があります。高速ができて便利になったよね、と当たり前の車社会で生きています。
その距離を当時の人は普通に歩いて移動していたなんて。そりゃ現代人とちがって足腰が強かったのだろうなと想像できます。
さて、今走っている山陰本線は京都駅を始点として、中国地方の日本海沿岸を巡り山口県下関市の幡生駅に至る路線となっています。
京都駅の開業は1877(明治10)年で、日本初の路線である新橋から横浜間の開業は1872年です。
そこから50年に満たない期間で、江津駅が1920(大正9)年12月25日に、浜田駅が1921(大正10)年9月1日に開業されています。
これ以上ほり下げるとどこまでも行ってしまいそうなので、この辺で止めておきますが近代日本の歴史を鉄道の側面から辿るのも面白そうです。
写真撮影用のパネルもあります
展覧会会場の入り口には写真撮影用のパネルが置いてあります。大正ロマンにタイムスリップした気分になれます。
グッズもオシャレ♬
ミュージアムショップも充実しています。私は図録とノートとポストカードを買いました。
肝心の展覧会の鑑賞レポートもnoteで記事を公開しています。よろしければご覧ください。
非水の手による多種多様な図案(デザイン)の数々が生み出された背景を自分なりに考えてみました。
図案家をグラフィックデザイナーという呼び名にした仕事人の1人が杉浦非水です。
三越百貨店やカルピスの宣伝、地下鉄の開通ポスターなど特定の業種やジャンルにしばられることなく多くの作品を残しています。
また、写真への情熱や当時としてはまだ珍しかったであろう映像記録にも挑戦しています。
それらの多彩な趣味や好奇心が図案のアイデアに結びついたこともあっただろうし、単に楽しかったのではないかとも思えました。
残された作品の多くからは、楽しみながら描いていますオーラを私は感じました。
巡回スケジュール
この展覧会は島根県立石見美術館では8月30日までの開催ですが、以降は巡回される予定となっています。
2021年9月11日(土)~11月14日(日) たばこと塩の博物館
2021年11月23日(火)~2022年1月30日(月) 三重県立美術館
2022年4月15日(金)~6月12日(月) 福岡県立美術館
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
※本記事では公式図録のほか、会場配布リーフレットの〈鑑賞ガイド 非水が描いた石見 写生地マップ〉も参照しました。
島根県芸術文化センター グラントワ
(中に島根県立石見美術館がございます)
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しまね暮らし「しまねの美術担当」
アートブロガーの町平亮(マチ ヘイスケ)です。
30代後半から美術にはまり中。
普段はnoteで記事を書いています。
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町平亮(マチ ヘイスケ)@アートブロガー